造形表現演習3レポート
B3E9 構想表現3年9番 吉見拓哉

■自己の創作的欲求と社会
 今、たった今の出来事ですが、とても足がかりとして自分の心に分かりやすく引っかかった事象から話を進めて行きたいと思います。
 レポートを書き上げようと、学校のパソコンルームのパソコンを起動し、表示された画面に一つの奇妙なテキスト・ドキュメントを目に留めました。
「おっぱい画像集」
開いてみると「だまされたね!ばーか」等の内容が書いてありました。
誰が?何のために?このような事をすることによって彼は救われたのか、気晴らしになったのか?かわいそうな奴もいたもんだとさらりと受け流すのも、単純に腹が立つのとはまた少し違う、奇妙な感情が湧き上がりました。
 J・D・サリンジャー著『ライ麦畑で捕まえて』に同じような下りがあります。主人公のホールデンは、妹の通う小学校の壁に小さく「ヤらせろ!(Fack you!)」と落書きされているのを見て、意気消沈と憤怒に見舞われ、消しゴムでそれを消そうとする、という話です。無垢な少年少女たち─その中には彼の心の中で、とても大きな救いとなっている妹も含まれています─が何の隔たりも軋轢も彼の言うインチキも無い、神聖な子供たちの世界を汚しやがって、こんなクソッタレは死んじまえ!と。
 端的に言えば「死んじまえ!」と言うその感情。僕はこの言葉を少し広義的に、彼の小学校での出来事、自分の今この学校で起こったことをシンクロして捉えました。
それは、社会的に、精神的に弱い人物への強いシンパシー。つまるところの自己愛であると思われるのです。このような些細なこと、何も思わない人は多くいると思いますが、とても敏感に怒りを覚える人は少ないのではないかと思います。僕はどちらかというと後者で、とても醜悪で劣悪な反面、とてもかわいそうでいじらしい、ある種の人間の持つ悲しい側面、そんなものを見てしまった、と。
「かわいそうでいじらしい」つまり自分の中に─自覚、無自覚に関わらず─ある程度そういった側面のある、端的に言えば大人に成り切れていない部分を持つ人間が鏡を見るように、過度に反応してしまう出来事ではなかったのかと思うのです。
僕は人の悩み相談や、何かしらの答えを欲している人からの質問に答えるのが好きです。それは、他人から頼られている、認められているという喜び、他人より優位であるという喜び、自分が「自分」を持っていることを確認する喜び…様々な面があるとは思いますがそれは結局のところ、質問してくれた人を救っているのではなく、質問してくれた人に救ってもらっているのだと思います。
つまり、僕はこのドキュメントを残した誰か、もしくは、このドキュメントのような未成熟さを臭わせる事象を他者に向けて行ってしまう、不特定多数の誰かを救ってあげたい。そうすることによって自分の劣悪な部分をも消し去りたいと願っている、と言う事なのです。(蛇足ですが、上記で話したホールデンは、消しゴムでどれだけこすっても「ヤらせろ!」の文字を消すことができなかったといいます)
僕は、とても観念的ではありますが、このような物事を思い、物を作っているのだと思います。